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2006年 05月 07日
![]() 唄うは永六輔の声であった。ふと耳を傾けると…。「ん?」「ほんとに?」 まさかあの詩が歌になっているとは思いもしなかったのである。 好んで良く足を向ける中華そば屋がある。少し開ければ豆腐で有名な店である。 ある日、勘定を済ませ用足しにトイレに行くと目の前にした一枚の張り紙があった。「なんだこりゃ?」と文字を読み続けると…。感銘した!実はこの張り紙の前で涙したのであった。 扉を開け…「女将サン!あの詩誰の?」そう一編の詩が書かれていたのでる。 「あぁあれですか?あれ永六輔サンのお父さんの詩だそうですよ!」「泣いてらっしゃるんですか?良い詩ですよねぇ!」 ちょうどその頃東京で花を始め出した頃で…いたく花の有難さに感謝している時でもあったからか客の面前で大泣きしたのである。 それ以来とても気になっていて、行く度にトイレに入って書き写していた程である。そんな中、テレビから聞こえて来た曲があの詩を歌っていたのである。思わずテレビに釘付け状態になった。 モノの善し悪しや上下関係や力の世界でしか生きて来なかった。振り返れば自分自分で肩肘張って来た。そんな自分が一本の花に教えられ、それまでの事業を人に譲って一人になって花と生きている。そんなとき「これだよね!」と思わせてくれた詩なのであった。 恐れ多いがここにその詩を紹介させて頂こう! 生きるということは誰かに借りをつくること… 生きていくということはその借りを返していくこと… 誰かに借りたら誰かに返そう… 誰かにそうしてもらったように誰かにそうしてあげよう… 生きていくということは誰かと手をつなぐこと… つないだ手のぬくもりを忘れないでいること… めぐり会い愛し合いやがて分かれの日… その時をくやまないよう今日 明日を生きよう… 人は一人では生きていけない… 誰も一人では生きていけない。 永忠順 花よ感謝! そしてまた涙! ……であるか? 2006年 04月 29日
「花の命は短くて…」耳にしたことがあると思う。女性の美しさを花に比喩しているのであるが…。確かに短い。だがしかし、一般的に思っている以上に花もちは長くすることが出来る。確かに花を扱う者と比べればそれに関わっていられる時間は短く知識も少ないと思う。基本的には水の状態・温度湿度・明かりの問題・手入れなどがあると思うが…。肝心なのは経験と愛情である。 花でのことを想像してみよう! まず始めに。「かわいい!」「きれい!」「すてき!」と感じて取り上げた一本の花が一番花もちが良くなる一本の選択方法である。そう思って止まない! あとは愛情である。じぶんはミネラルウォーターを飲み花の水替えを怠ってはいないだろうか?誰だって一番風呂が気持ち良く感じるのは当然であろう…花も同じである。一日中デスクに向かっていれば昼休みに陽に浴びてみたい…夕方寒くなれば一枚のカーディガンでも羽織ろうものだが…?。一本の電話も無く「つまんない!」と思うくせにスッカリ花瓶の花を忘れてはいないであろうか?そう思うなら花と話してみれば良いのである。 以前、「自分ではなにも出来ない」というログを書かせて頂いた。実にそうなのである。だからして花は一生懸命咲いているではないか!君に気付いて欲しく少しでもきれいに咲いているのである。 「舐め回すように!」とは少々病的であるが…普段見ない側から見てみてもその表情は多彩である。自分としても分かっているようで初めて見せつけさせられる花の美しさに驚かされることは万度である。 これまた一般的な話として…気品のある花に百合が揚げられると思う。 気品さからのイメージとしてその環境の条件は厳しくも思われるであろうが…これが以外と環境の悪条件にも強い。(生産者や花屋での管理条件は大切であるが) 百合はきっと条件よりも愛情に重きを置いているのであろう…それだけに花を扱う者としては一連の管理だけでは済まされずに手を焼く花でもある。 しかるにお分かりの諸氏には「もっと咲いて頂きたい!」と申し述べたいのである。 咲いて頂くことでと愛情を注がれる…このリレーションは花でもしていることなのである。(注釈、充分に注がれておられていることは承知の助である。) さも簡単なことである……であるか? 2006年 04月 28日
![]() 写真は我が心の花である…人生の師と崇めるはIulius Caesar(ユリウスカエサル)であるが、花となればこの人Jean Seberg(ジーンセバーグ)の他は無い。 映画「勝手にしやがれ」「悲しみよこんにちは」で有名である。 映画は大変好きである。イメージ先行型の自分は映画の1シーン1シーンを記憶に残し…糧としてきた。従って俳優達の情報は二の次。あまり知らないのである。タイトルさえ記憶に残さないものもある。しかし一瞬のシーンは確実に脳裏に焼き付いているのである。ロケーション、台詞、役者の演技、監督の演出、などなどである。 しかしこのJean Sebergだけは名前はもちろんのこと、この人物自体として映画の中全てに記憶しているのである。 このシーンは「勝手にしやがれ」でパリに留学中のアメリカ娘を演じるSebergであるが…. 一瞬にして魅了された。そして未だにそのすべてを思い出せる。 当時も今も同時に同程度に「カッコいい!」「素敵!」「可愛い!」と感じるのである。そして男としてあまりにも単純ではあるが…ウキウキしてくるのである。 女性諸君には「男っていつまでも子供ねぇ!」と云われそうであるが…そう!…そうなのかも知れない! 丸みを帯びるどころか粉になりそうな老いぼれでも脳裏に焼き付け心の奥底に咲かせておける花があるということは… ……やはり子供か?ガキか? …であるか。 2006年 04月 27日
大地に根を張り巡らし必死に水分養分を接種して生きている。よって日照りによって干ばつ化した土地から水の豊富な土地へも、水害から身を守るためその身を移動することは生を持った時から一切許されない!その根を足に例えれば大地に捕われている訳だし、腕と手に当たる枝や葉は、お日様からの恩恵を受ける自らの代謝をする為に一切動かすことは出来ない。要は一切自分では身を動かせずに、なにも出来ないのが草花である。 そこで花を着け色を発色させ自分の好みの昆虫を刺激する。 そうして呼び寄せられた昆虫は花心に潜む蜜を貪り花の受粉を助けている。 受粉後実を設け今度は動物に栄養を分け与えそれより種子を他の地へ散在させる。 こうして草花は大事な自分たちの子孫の保存を自ら身を動かさない代わりに事を成し遂げているのである。 さらに、今ひとつの大きな要素が香りである。 我々人の世界にしても香りは最終文化と云われる。好しとされているそれの殆どが植物からのものである。 我々花を扱うものはこれの恩恵を沢山受けている。私は嗅覚にさほどの自身は無いと思っているが、ことこの花の香りには敏感と自負している。無臭の花を多いのであるが…強い香りを持つバラや百合などは、日によってその香り方が微妙に違うのに気が付く。それは花が気分良しとしている時とか…不健康で弱りかけている時とか………これは不思議なことなのであるが…ジェラシーを持っている時と感じることもあるのである。実際には香りが普段より強く思える。 さらにまた不思議なことにも気付くのである…。 「あの人には華がある!」と云う話はすると思う。 実は花にも感じるのである。同じ種類の花の中でも…違うのである。位と云うか…威厳と云うか…花々しさがあるものとないものがあるのである。 擦れば花にも分と云うものが存在することに繋がっていくようにも感じる。 私はそう感じれるようになった時から撮影にはその華を持った花を見つけ出すことから始めている。当然それに恵まれなかった花も愛らしいには違いないのであるが…。 話は堂々巡りになるが…人もまた同じなのであろうと思う…この世に生を受け生きているもの全てに課せられた運命を感じる。そして、そんな思えば不公平にも思える仕組みがこの世なのであろう…。 2006年 04月 26日
先日、ちょっとした隙を見つけバイクでソロツーリングに出てみた。行く先を見つけずに…バイクがたどり着いたのは伊豆下田。 天候は小雨、コースは一般的ではく…早崎からターンパイクにのり高速ワインディングを久々味わって来た。バイクでは目的はほとんど持たない!何故なら走りに徹するからでその他に余裕は無いのである。平日にも関わらず何人かのライダーを見かけた。 路面の悪条件を蹴散らし…そんな彼らをかいくぐるように疾走し引き離し先で一休み。マシンはまだ日本にそう入って来ていないものなので何人かのライダーに話しかけられた。「○○○ですか?流石早いですねぇ!」「初めて走りを見ました。」………などである。だが人生の妖怪はその口元の奇妙な動きを見逃さない! 「れれっ?親爺かよ!」「年寄りの冷や水かぶるなよっ!」 だがもう一つの声が確実に聞こえていたのである………。 一休みの際、写真のマーガレットを撮影中であったのである。恥 高速ライダーは真夏でもその身を露出できず革のレーシングスーツに包まれる。 そんな厳つい出で立ちで大のオッサンが小さなマーガレットを大地にひれ伏し…まるで水着のモデルにレンズを当てているカメラ兄ちゃんのように…。 「何だいっ?このオッサン?バッカじゃないっ?マシンが泣きまっせ?」と…… いわれていたのである…きっと。 無理も無い話である。だれだってシューマッハがF1止めて花の写真は撮るとも思えないであろう…(シューマッハと自分を置き換えることに無理はあるが)笑。 だが…見て頂きたい!この小さなマーガレットの花を…。思わずカメラを出さずにはいられなかったのである。雨雫を花弁にうけ、蜜を吸いに来てくれる昆虫も期待出来ないのに…幾何学化された花芯を綺麗に並べ可憐に咲いているのである。 無垢である。自分では何一つも出来ない花達こそ無垢の極みである。その無垢な一輪花が我を忘れさせ足を止めることが出来る唯一の生き物なのかも知れない…。 2006年 04月 25日
美しい程にその花弁を重ねている。バラの種類は花の中でも多く、数知れない程ある。私の好みのバラは以前ご紹介したようにRED VELVETであるが…今回この写真を紹介させて頂いたのはこの重ねられた花弁にある。花芯を包み覆い隠すかのように固く、蕾みの状態からいつしか時が満ち、閉ざしていたそれは一枚一枚サディスティックに解きはじめていく。 …切花を扱うとき、水切り湯揚げは一番仕事。これを怠れば切り花は水が上がらず咲き切らずに終わってしまう。保存の仕方次第で花弁は蒸れてしまいその美しさを失ってしまう。大地からの息吹を絶ってしまった者への報いなのである。 なかに、蕾みもとても健康であるにもかかわらず、なかなか開花してくれないものもある。しかし、私は無理矢理咲かせることはけっしてしない。そんな蕾み程咲き始めから咲き切るまでの美しさは他のバラと比べものにならない程だからである。きっと一生懸命咲くか咲かずにいるか悩み惑っているのであろう…。その悩み戸惑いが美しさの源になっているのである。……そう信じてやまない! いつしかそんな蕾にもその時期が近づいたとき…ポンとお尻を叩くように一輪取り出してあげる。みるみるうちに素直に咲き誇って「ほら観て!観て頂戴!」と云わんばかりに…まるで大舞台のプリマドンナのように立派な一本のバラとして誕生する! こうしてこのようなバラは私に最高の満足感に満ち溢れさせてくれる……と同時に自分は自立していってしまった後ろ姿を見ているような感覚を覚えるのである。 老いさらばえて……であるか? いやそうは思わない!老い朽ちてたとえ屍になろうとも、その直前まで 美しさを感じことさえできれば男は男でいられると思う……である! 2006年 04月 20日
牡丹である。今朝、連れと朝の散歩。(連れといってもワイヤーテリア♂) 所々でこの牡丹が咲き、道に咲き落ちていた。 中国原産で日本に来た花である。花言葉を「王者の風格、風格あるふるまい」 とするが…さすれば落ちた花の姿は王者の最期であろうか。ふと王者でなくほっとした気持ちでいくつかの落ち花を拾い上げた。するとポロポロっと花弁が手の中で崩れていった。子規が「一輪の 牡丹かがやく 病間かな」と詠ったそうである…。子規は病に伏せ文を連なったが…わたしはどうもこの子規の生き方が気になってしょうがない。私自身今は健康であって同じ年代の男性と比べそのものであると自負している。 だからして…なのである。共感するのではなく…共生を感じ取ることが出来る。(最近になってではあるが…)健康であるならばそれ以上に多感でありたい…健康であるが故に子規のような感性を失いやすく…連なられた文を大切にしたい。 子規は一語一語の意味の解釈を独特のものを持ち私に問いかけてくるように感じる。 などと思いながら散歩を続けると…ポツポツと雨が落ち始め人が小走りに雨を避け始めた。我がトレバー(連れの名前であるが)もキョロキョロとし始めた。 そういえば、今日は天候不安定と聞いた…「春か!?」 「初雷の二つばかりで止みにけり…」子規の俳句である。 こんな句を季節に触れながら詠める日本を離れること偲びない。 …であるか。 2006年 04月 16日
ミヤコワスレである。……と思われる。………振り返ればいくつかの都を渡って来た。住み着けばまた離れ…他の都へ移り変えて来た。いや致し方なくである。実態を…真実をと…。その度に傷みという代償を払いながらも…。 結局のところいま花に落ち着いている。 どうも都とは移ろいやすく、実態として感じることの出来にくいところのようである。 そして私は自ら逃げ場の存在しないところへ身を投じていく性質を持ち受けているようである。 万人も弱さを持ちその弱さを理性で補いこの世に生き続ける運命にあるにもかかわらず、その弱さを理性をねじ曲げ…己を正当化し…このネットの世界の何処かへ、まるで戯れているかのように逃げ駆け込みせんとする。 あぁ哀れという他を知れない。………。 と嘆き悲しんでいる夢を見たのである。 夢の中での出来事を文章にして書くとこのように変梃な文章になり難しい…苦笑。 このミヤコワスレの花の日も近いのであろう…であるか? 2006年 04月 14日
クローバーの花である。別名、白詰草。アイルランドの国花である。日本名の縁から昔々ガラス製品の詰めものに使っていたそうでもある。アイルランドといえば、ケルト十字で有名であるが…ご存知であろうか?このクローバーの葉が十字架に似ていることから一般的に幸運の印とされアイルランドは国花にしたのではないかと思う。 アイルランドといえばギネスビール・エンヤで知っている諸氏も多いと思うが…今回は、ダンス、アイリッシュダンスについてお話ししようと思う。 映画「タイタニック」から日本でもアイリッシュダンスが多く紹介され始めた。足さばきが見事なまでに早く美しいダンスである。だがこの日本で紹介されている殆どのアイリッシュダンスは近代のショーアップされたものであって、古典というか正調というか言い継がれて来たものはもっとゆっくりとしたものでほとんど頭は動かない。 古くイギリスに統治されていた時代、誇り高きアイルランド人いわゆるケルト人を統治していく為にはイギリスは相当苦労したようで、彼らの文化を抑圧して統治しようとして来た。 ひとつに、夜はイギリス人の警邏が夜回りして彼らの風習を見張っていた程だそうである。そんな見張りの目をかいくぐるように、彼らはダンスを踊ったのである。そうしていつしか改良を重ねた結果、窓越しから覗かれても分からぬようにと、身体をほとんど動かさずにステップだけで踊れるスタイルを作り上げたのだそうである。 私はそんなアイルランド魂がとても好きである。 抑圧されても抑圧されても屈せずに立ち上がり…反発するだけでなく工夫を凝らす…頑固さというか…ただの頑固ではない!ここまでくれば頑固も完成の域に達しているのである。 だからしてこのアイリッシュダンスも何処の国にもない独特のものになっているのであろう…それはいつしかスペインにまで飛び火してスパニッシュダンスの原型までになっているそうである。 アイルランドを象徴するマークとしてこのクローバーの葉が多く使われている。小さな草ともいうべきこのクローバーは足で踏まれても起き上がってくるとても強い植物なのである。 今夜は近くのアイリッシュバーに行き、クローバーに乾杯である。 …であるか? 2006年 04月 09日
Nouvelle Vagueフランス映画の一つの潮流である。「新しい波」と訳されるのが適当と思う。その殆どをむさぼり尽くすかのように観入った。そういった意味では本当に良い時代に生きて来たかも知れない。何故なら、当時、「ゴダール、トリュフォーだってよぉ!かっこいいじゃん!」「ジーン・セバーグいいよなぁ〜!」といったふうにNouvelle Vagueの背景も何のその。そのクールなタッチに惹かれ憧れていたただの小僧だった。だがその後諸先輩達の所行は実に明確で分かりやすくすぐにも理解し、自分の言動に活かせて来れた。いわゆる人生のお手本?バイブル的なものになり得たのであったのだ。 そう振り返ってみて、では自分達の世代は何を問うたのか?高度成長期中期以降に社会に出て、少しは成し遂げた自負はあるが…何ともノンポリ(古いか?若者諸君?)。 確かに、今の時代にも沢山のお手本となるものはあるとは思うが…複雑な社会になっている現代とても分かりづらいものに映ってはいないか? 今までの仕事柄、形容詞に大きく関わり続けた自分としてはコンセプチュアルな部分を実態に換喩していくことで生業として来たが。逆に本質を分かりやすく表現し比喩していくことに慣れていないのである。 さて、これからのことである。「美しく老いていく為の処方箋」と書き出させて頂いたこのログをたった一人の波動としていかせて頂ければと思っている。 というか自分に対しての戒めというか…諸先輩達への懺悔にもなるのであろうか…。 時代は待ってはくれない!自分が男である本能というものからか…焦るのである。
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「花の命は短くて…」耳にしたことがあると思う。女性の美しさを花に比喩しているのであるが…。
大地に根を張り巡らし必死に水分養分を接種して生きている。よって日照りによって干ばつ化した土地から水の豊富な土地へも、水害から身を守るためその身を移動することは生を持った時から一切許されない!その根を足に例えれば大地に捕われている訳だし、腕と手に当たる枝や葉は、お日様からの恩恵を受ける自らの代謝をする為に一切動かすことは出来ない。
先日、ちょっとした隙を見つけバイクでソロツーリングに出てみた。
美しい程にその花弁を重ねている。バラの種類は花の中でも多く、数知れない程ある。私の好みのバラは以前ご紹介したようにRED VELVETであるが…今回この写真を紹介させて頂いたのはこの重ねられた花弁にある。
牡丹である。
ミヤコワスレである。……と思われる。
クローバーの花である。別名、白詰草。アイルランドの国花である。日本名の縁から昔々ガラス製品の詰めものに使っていたそうでもある。
Nouvelle Vagueフランス映画の一つの潮流である。「新しい波」と訳されるのが適当と思う。その殆どをむさぼり尽くすかのように観入った。